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渕上勇次郎学長のご退任について

    

高崎商科大学および高崎商科大学短期大学部の学長である渕上勇次郎教授が2023331日をもって学長を退任されます。

渕上学長は、1988年(昭和63年)高崎商科短期大学の開学時より35年にわたり本学園の教育・研究・社会貢献に尽力されました。

3/26の「学長室より」(学長ブログ)にご退任のご挨拶が掲載されているところですが、当該記事に掲載されている「学長退任のご挨拶」(学園広報誌『商大SHODAINo.1020232月発行より)の全文をあらためて掲載し、渕上学長と本学の35年間の歩みを振り返ります。

学長退任のご挨拶

高崎商科大学・高崎商科大学短期大学部
学長 渕上勇次郎

 昭和631988)年度の高崎商科短期大学の開学以来今日まで、私は35年の長きにわたり大変お世話になってまいりましたが、令和42022)年度をもって退任致すこととなりました。みなさまに温かいご指導とご厚情を賜り、心から感謝を申し上げます。

神戸から高崎へ

 振り返りますと、昭和62l987)年の初夏になりますが、森本純生先生(当時・法人事務局長)に勤務先大学のある神戸にお出でいただいたのが、私の「商大人生」の始まりでした。「経済学の担当者としてどうか、21世紀には四年制大学にしたい」との展望を交えたお声がけがありました。他の大学からも話はありましたが、先生の大変ありがたいお誘いに身を預けました。

 船の汽笛がボーッと聞こえるl0万ドルの夜景の街・神戸から、海なし群馬県にきて戸惑いもありましたが、さすがに交通の要衝、商都・高崎、日本のど真ん中にあって陽光あふれる開放的な土地柄にすぐに溶け込むことができました。まもなく、あの「阪神・淡路大震災」があって、人の運命の不思議な「巡り合わせ」を思ったのでした。

短大の頃の思い出

 昭和631988)年、記念の第一回入学式の日は、4月ながら真新しい校舎には雪が舞っており、周辺部分の残土に積雪があったのを思い出します。式典では、依光良馨初代学長のヒューマンで格調高い告辞がありました。森本公生理事長(当時)からは、学園の光輝ある歴史と伝統、地元の人材育成の重要性について告辞があり、今日につながる本学の建学の精神、教育理念が高らかに宣言されました。

 いま、短大初期の頃のことが懐かしく思い出されます。「フレッシュマン・キャンプ」では、新入生を連れて教職員みんなで大型バス5台に乗り、校歌(依光学長作詞、芥川也寸志作曲)を歌いながら善光寺や小布施に行きました。スキー合宿では菅平高原や岩原に行き、ゼミ合宿には清里、軽井沢、奥日光などへ出かけました。奥日光では旅館の大広間に「歓迎!高崎商科大学渕上ゼミご一行様」との大書きの看板があり、照れ臭さくも嬉しかったのを覚えています。ゼミ一期生の小濱英之君は、ご存じ「ワークマン」社長。あの頃の学生たちは、天衣無縫の行動派タイプが多かったような気がします。また、アユ釣りも思い出深いです。森本純生先生に烏川の友釣りに連れて行ってもらい、お昼はみんなで「アユ・バーベキュー大会」を堪能しました。先生に教わりながらも、私はなかなか釣れず川原の石ころで遊んでおりました。

 初代学長の依光先生からは、突然自宅に電話があり「博士号を取りなさい」と軟弱な私に厳しいカツ、数年かけて取得できました。その後はお陰様で、紀要に創刊号から今年度の37号まで欠かさず投稿できました。先生のご葬儀では、感謝の気持ちも込めて弔辞を読ませていただきました。

四年制大学、開学

 さて、短大開学の時期は、いわゆる「バブル経済」のただ中、永遠の景気が約束されたかのような活気に加え、「団塊ジュニア世代」が入学してくるご時世でした。本学でも「期間付き定員増」の措置が取られ、一方では、「男女雇用機会均等法」社会の流れがあり、女性の四大志向も顕著になっていきます。森本純生理事長(当時)の構想される四年制大学の設置も現実味を帯びてきたのです。森本淳法人本部長(当時)を中心に文科省への設置認可申請の業務が進み出しました。学部は「経営環境」か「流通情報」かの二つが有力でした。私は流通新時代を反映する後者を建議し、申請書類の「学部設置の趣旨」を書かせてもらいました。学長予定者の碓井彊先生のご尽力により教員組織ができあがり、平成13(2001)4月、待望の開学。同時に、短期大学は短期大学部になりました。

 今世紀に入り、18歳人口は、横ばい状態の平成12(2000)14(2002)年を過ぎると減少傾向が加速。開学して当初は苦戦しながらも入学者は徐々に増えていきました。開学時の「流通情報学部」から商都・高崎にふさわしい現在の「商学部」になって、関係職員の方々の懸命のご努力が実り、全国版「Hau1-A」、「3.5本の矢」の二大プロジェクトもスタート、定員を大きく超えるようになりました。短大部は、学科コースの大改革により平成18(2006)年度には空前の入学者を記録し、文科省の助成金を辞退するほどでしたが、その後も附属高校のご支援も得て、安定した入学者が続いています。

 地元から多くの入学者がありますのは、優れた地域貢献ができている証だと思います。「富岡製糸場」の世界遺産登録のときには、上信電鉄さんと何度も「地域再生列車シンポジウム」を開催したこともあり、県内初の文科省「大学 COC事業」に採択されました。「地元の信用がなくては、全国からの入学者はない」との学園の基本思想をもとに、私は「地元信頼第一」、「全国オンリーワン」を長期ビジョンとし、年度ごとの「運営方針」を提起してまいりました。

「今月の一言」

 学生生活は勉学と並んで部活が彩を添えます。学園の強化指定クラブとなった空手道部、その顧問を拝命。安齊義宏監督(附属高校長)のご指導により、部員たちは関東大会優勝、全日本準優勝など素晴らしい成績を収めてきました。

 ところで、こうした選手たちの活躍や学内トピックスを捉えて、平成22(2010)年度より本学ホームページに「今日の一言」をアップし続け、全部で160本ほど。「専門の経済のことを書いたらいいですよ」との声もありましたが、「学長ブログ」ですから、「商大ニュース」に関連した発信を心がけました。県内の高校や「Hau1-A」締結で全国各地の高校を訪問したとき、読んでくださっている方が遠方にもおられるのが分かり、とても嬉しく励みになりました。新型コロナになって、成長過程にある学生への思いから「一言」に力が入りましたが、もう少し対面授業ができなかったか、との不惜身命の思いが今でも脳裏を去来します。専門の勉学、人間性を磨く、社会に貢献するという人材の育成は、基本的に対面でなくてはやはり困難だからです。

地域貢献・交流

 短大初期のうちは、森本純生先生から高校訪問の作法の手ほどきを受け、また大学開設時には、森本本部長はじめ教職員ともども私も多くの高校を訪ねました。最初のうちは「魅力がなければ薦められません」「資格・検定の実績をあげるように」などと言われることもありました。教育現場を通して現実を知ることの大切さを肌で感じ、Hau1-Aではわが国商業教育の現状と課題を理解する体験となりました。地方では、勉学の機会に恵まれない多くの優秀な生徒さんに出会います。本学に入学され30名を超える「公認会計士論文式試験」合格に繋がっています。学園は時宜を得た新校舎(SKY)を建設、「経理研究所」も設置し「会計教育のメッカ」をめざす王道が築かれました。SKYは、地元の有力な設計会社の斡旋による競争入札で、もっともリーズナブルな価格を提示した建設会社の施工により完成。最先端をいく本学らしい斬新な外観で多機能の校舎となり、地域のランドマークにもなっています。

 ここで、地元の方々との私の交流について少し触れたいと思います。趣味を生かして囲碁の公開講座を担当。毎年、高齢者が多いですが「商大さん、頑張ってるね」「よくテレビでみるよ」と笑顔でお出でいただき、コロナ問題で中断するまで続きました。そんなご縁もあって、「上毛新聞」の囲碁覧に何度か私の対局譜を掲載いただくようになり、今年は「新春囲碁対局」に取り上げてもらいました。

学園の末永い繁栄を願って

 ひと口に35年ですが、その中身は濃く充実した時間でした。森本純生学園顧問、森本淳理事長はじめ教職員、同窓会、後援会、多くのご関係のみなさま、大変お世話になり心から感謝を申し上げます。学園の益々のご繁栄をお祈り申し上げ、退任のご挨拶と致します。

写真と共に振り返る35年間

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